軽中等度難聴の娘を育てた経験から

―これからの聴覚障害教育への期待―

学校公開講座(専門研修)

YKさん(難聴児の親)

「これからの聴覚障害教育への期待」というテーマをいただきました。まず、私の子育て時代の経験を、ひとりの親の立場でお話したいと思います。

 東京都難聴児を持つ親の会では、平成12年から13年にかけて「新しい時代に向けて聴覚障害教育を考える」という企画を立てて、親の会の会員や難聴学級通級生の保護者など、聞こえない子どもをお持ちの親御さんたちにアンケート調査をしました。そして、その結果に基づいて、平成14年には、親の会から東京都教育委員会に要望を出しました。(この作業に関わって、私個人の思いが、多くの親御さんの願いと共通していると感じました。)

 この要望書を出してから、聴覚障害教育は特別支援教育の枠の中で見直されて来ました。その改善案に対しても、親の会では意見や提案をしながら見守り続けています。それを「これからの聴覚障害教育」というテーマでふれたいと思います。

 これからの教育を話す前に、今までの教育は親の立場から見てどうであったかを、お話ししたいと思います。私の体験の中で、心に残っている言葉を紹介しながら、問題点をお話しします。

 まず、「幸いなことに高度難聴ではないようですが、軽度もしくは中等度難聴の可能性があります。」この言葉は、昭和58年(1983年)娘が生後9カ月で難聴を宣告された時のものです。音に対する反応が鈍いのをずっと心配していましたので、高度の難聴ではないと言われてホッとしましたし、それに合わせた教育をすれば良いのだと腹が据わって、かえってすっきりしました。

 しかし、この「幸いな事に…」っていうのが、くせものだったと今は思います。もしも高度難聴だったら、なんと言ったのでしょう?「お気の毒ですが…とても重い難聴です」となるのではないでしょうか?幸いなことにとか、お気の毒という言葉の中には、「聞こえないことは不幸で大変なこと」という意味が隠れているのではないでしょうか。そして、「幸いな事に…」という言葉を受け取った私も、「高度難聴でないなら、中等度なら、なんとかなる」という気持ちでホッとしたのだと思います。その後もずっと、この言葉に引きずられました。

 子どもの成長につれて、難聴の程度が変わることもありますので、ここは大きなポイントだったと思います。風邪をひくだけでも聞こえの状態は変化しますが、聴力がもっと悪くなったらどうしようという不安で、いつもびくびくしていました。私は、聞こえないことを否定的に受け取ったのだと思います。そこから子育てが始まると、どんなに一生懸命やっていても、根本がずれたものになるということが、子どもの成長と共に表れてきました。

 障害を否定的に受け止めた私は、次に障害を「受容しなければ」と思いました。私がこの子を授かったのは、神様か仏様に(分かりませんが)私が親として選ばれて、「頑張ってちゃんと育てて」と、この子を任されたのだと思いました。聞こえないお子さんの親御さんと話すと、同様に自分を納得させようとした方が多いようです。「選ばれて、この子を任されたのだから、」この後にどのような言葉が続くのでしょうか。「この子のために頑張らなければいけない。」そう思ったところから、普通の子育て、自然体の子育てではなくなります。

 聞こえる子どもを育てる場合は、わざわざ頑張ろうとは思いません。かわいいから、自然に愛しています。でも、障害を持つ子どもの親は、この子のために自分が頑張らないといけないと思います。それはなぜでしょうか。障害をマイナスと受け止めて、マイナスはできるだけ少なく、借金を返してゼロにと思うからです。

 聞こえにくい子どもに、日々の体験の中から自然に言葉を身につけさせるのは、子どもと毎日接している母親の役割だと指導を受けました。子どもが見ているものを一緒に見て、子どもが感じたことを共感して、今、子どもがこんな風に思っただろうという言葉を話してやる。私も、その指導に沿って努力しました。聞こえない子どものお母さんは、いろいろな所で指導を受けて、方法はまちまちですが、皆さん、模範的な親を「演技」し始めます。「演技」というのは、頑張らなければと思って、「自然体」じゃなくなっているという意味です。

 私が子供のお友だちのお母さんから「障害を特別な事と思わないでね。年をとるとだれでも障害者になるのだから。」と、言われたのはそんな時でした。きこえない子どもに日本語を獲得させていかなければならない生まれつきの聴覚障害と、すでに日本語を獲得している老人性難聴とは全く違います。でも、「障害を特別な事と思わないでね」という言葉は心に響きました。私の子育ての姿勢が、自然体でなくなっていた時でしたから、私にとって、障害に向かい合う姿勢を変えるヒントになる言葉だったと思います。でも、障害がわが身にふりかかってきた時、特別な事ではないと思って自然体で受け止められるでしょうか。

 当時は聴覚口話法教育の時代で、高度難聴のお子さんの場合は、親子でろう学校などに通い、かなり厳しい訓練を受けられたようです。が、娘は中等度の難聴(右耳は、100dB以上の高度難聴で、補聴器も使えません。左耳は、聴力損失が50dB位で1歳半より補聴器装用)で、言葉も自然にぼつぼつと出ていました。母親の私との間では会話もできていましたので、東京都身障者センターに時々通い、聴力の管理や補聴器のフィッティング、育て方の指導を受ける以外は、家庭で母子密着の子育てをしていました。3歳上に兄がおり、小さい子を2人抱えていると、同じ障害児を持っているお母さんとお付き合いの方法も、時間的なゆとりもありませんでしたから、私は1人で孤独に、悲愴(ひそう)感を漂わせながら、よい母、理想的な母を演じていたと思います。

 中等度難聴の場合は少しは聞こえていますから、言葉も少し出て、かえって難聴の発見が遅れる場合が多いそうです。3歳頃になって難聴が分かったという話も聞きます。しかし、割合早くから難聴に気付き指導を受けていた娘の場合、言葉の発達が聞こえるお子さんと比べ遅く、2歳3歳になると、同じ年齢のお子さんたちが使っている言葉の数とは差が出てくるのが明らかに分かり、親としてもあせりました。

 聴覚口話法教育のろう学校幼稚部での指導の様子は、NHK教育テレビの「テレビろう学校」で見ていました。教室の中で、小さな椅子に子どもたちが行儀よく座って先生の指導を受け、後ろのお母さんがメモを取って、家に帰ってその復習をする・・・その様子に違和感を抱き、できることなら伸び伸びと育てたいと思っていました。

 その頃、身障者センターで「一番苦手な耳だけを使って言語力をつけようとする聴覚口話法よりも、視覚を取り入れて語音の弁別ができるキュードスピーチを取り入れた方が良い」と助言を受けました。3歳半頃のことです。

 その時に、なぜ手話をすすめられなかったのかと言いますと、「手話は日本語とは異なる言語なので、日本語を母語とする聞こえるお母さんには無理だ」と説明されました。身障者センターは、成人のろう者も相談に来られる場所なので、ここで言われた「手話」は「日本手話」の意味だったのだと、今では分かります。

 また、テレビなどで手話を学べる番組など、全くなかった当時は、私が手話を目にする機会もありませんでしたから、手話を身につけても社会の中では使えないなら意味がないと、単純に思いました。振り返って調べてみますと、その頃、地域で手話講習会がちょうど始まり、市の広報などでお知らせがあったのだと思いますが、「手話」を求めていなかった私の目にはふれませんでした。でも、もし知っていても、その講習会は手話通訳奉仕員養成が目的で、聞こえない子どもと親のためのものではなかったので、小さな子どもを連れて通うことはできませんでした。

 そんな事情で、私は子どもとの会話の時、キュード・スピーチを取り入れたわけです。これは簡単で、すぐに始めることができました。今の時代、キュード・スピーチは聴覚障害教育にはそぐわないと思いますが、娘の言語獲得に(たとえキュードスピーチでも)視覚補助を使ったのは良かったと思います。なぜなら、誰でも自分の苦手なところばかり使って朝から寝るまで訓練されれば、想像するだけでぞっとしませんか?聴覚口話法は、そういう苦しい方法だったと思います。聞こえない子、聞こえにくい子も視覚の補助を使えばどんどん言語力は伸びていきます。

 中等度難聴は、聴覚口話法の厳しい訓練はしなくても、少しずつ言葉を覚えて話すようになります。でも、補聴器を使っても、音の聞き分けは難しく、間違って覚えている言葉もたくさんありました。娘がいろいろと物を詰めたリュックサックを持ってきて、「かゆい、かゆい」って言うんです。「どこが?」と聞くと、「違う」と言って、「お兄ちゃんを抱っこしたら重いでしょ。私はかゆい」と言ったのです。それは「かゆい」のではなくて、「軽いんだね」。と言葉を返しながら、私はとてもうれしく思いました。この場面は私にとって記念碑となる1コマでした。

 それは、言葉でうまく通じなかった場合があっても、そのまま諦めてしまったり、かんしゃくをおこしたりせず、言葉で説明をして通じ合っていけるという体験を、この時娘はしたのだと思うからです。

 聞こえないという耳の機能的な障害は治せません。それが、言語を獲得する上で障害になって、日本語の読み書きやコミュニケーションができないという能力障害になり、社会生活(例えば就職)をする時に社会的なハンディキャップにつながっていくというのが、障害についての当時の考え方でした。機能障害→能力障害→社会的ハンディキャップという連鎖を、どこかで断ち切らないといけないと思いました。親としては能力障害を起こさないように、きちんと日本語を獲得させたいと考えていました。言葉で通じない時があっても、分からないことを尋ねていける姿勢と積極性を身につけてほしい。そうして、将来、困ったことがあっても、こんなふうに自分の言葉で相手に説明して、解決をしていけるような子どもに育ってくれたら、社会的ハンディキャップを持たないで育ってくれたら…と願っていましたので、まだ幼いながら、そんな姿勢を身につけてくれたことがうれしかったのです。

 そのまま順調に育っていったかと言うと、そう簡単ではありませんでした。その頃、私たちは多摩ニュータウンに住んでいました。新しくできたばかりの団地は子どもの数が多く、近所に同年齢の子どもがたくさんいました。家の近くでいつも一緒に遊んでいる仲間と、2年保育で幼稚園に行くことをすごく楽しみにしていました。幼稚園に入園させる前に、ろう学校の幼稚部も2校見学し、初めての集団保育をどこで受けさせればよいかを相談しました。その時に相談の先生から、難聴の程度は重くないし言葉も少し持っているので、ろう学校の幼稚部より言語的な刺激もあり、友達もたくさんいる近所の普通幼稚園を薦められました。

 幼稚園には、初め皆と一緒に張り切って行きました。1学期は皆勤で、熱があっても休まなかったのに、夏休みに入ったとたんに「幼稚園はつまらないから、もう行かない」と宣言してくれました。「どうして?」と聞いても「つまらないから」という返事しか返ってきませんが、同じ年齢のお子さんに比べると、言葉の数が極端に少なくて、幼稚園での紙芝居、読み聞かせなど、その言葉の通りに聞いてもわからない(娘の持っている言葉に置き換えて読む、解釈や説明をしながら読んであげないとわからない)言語力では、楽しくなかったのでしょう。活発に体を動かす遊びは楽しめても、紙芝居、読み聞かせ、ままごとのように、言葉を通して楽しむようなものにはついていけなかったのです。また、先生の指示、友だちの会話も聞き取れないと、楽しいはずがありません。中等度の難聴でも、インテグレーションをするとそういう状態です。それまではいい感じに育っていたと思っていたので、5歳の娘のこの登園拒否宣言に、私はおどおどしました。実際9月から、「幼稚園はもうやめた」と行かなくなりました。

 「つまらないから、もう行かない」というのは、インテグレーションの限界を示している言葉でした。幼稚園は行かなくても、まあ良いのですが、小学校以降の集団生活にとけこめるようになるかどうか、とても心配しました。その後、幼稚園では担任の先生の他に、学年付きのフリーの先生を娘のサポートに付けてくださって、徐々に幼稚園に行くようになりました。が、娘の思い出では、幼稚園は余り楽しくなかったようです。

 2年間の幼稚園時代に言葉も増えて、小学校の授業になんとかついて行けるかなと思いましたので、小学校入学の際には、ろう学校入学は検討しませんでした。障害児を含めた「共同教育」を行っている私立小学校への入学は考えましたが、家からも遠く、結局ご縁がなくて、地域の小学校に入学させました。インテグレーション教育が広まっていましたので、学校側から受け入れを拒否されるという事はありませんでした。

 地域の小学校は、娘にとってなじみがあり、ご近所の友達も皆行くので安心して通い始めました。学校生活に慣れて落ち着いた頃に、担任の先生に学校での様子をお尋ねしたところ、「分からない時は授業の後、聞きにきていますよ。」と言われ、授業の分からないことを聞く積極的があると安心しました。今思うと、安心し過ぎていたと思います。

 学習のない幼稚園の生活でも、「楽しくないから行きたくない」と言っていた娘です。1年生の頃は、分からない事(たぶん、勉強の内容と言うよりは、連絡や指示の内容でしょう)がある時は聞きに行けたと思いますが、学年が進んで授業の内容が複雑になると、分からないことを休憩時間に聞きに行くくらいでは追いつかなくなります。分からない事を分かろうとしたら、授業で話された内容を、もう1回娘のために繰り返して説明していただかなくてはならないでしょう。特別な支援のないインテグレーションでは、無理なことです。それは予想していましたが、勉強は家で見ればいいと思いっていました。でも、学校生活には学習以外の幅広い時間があります。休み時間、給食の時、皆の会話に入れない寂しさとつらさ・・・その時娘がどんな思いをするかというのが、当時気づいていませんでした。また気がついていてけれども、どうしょうもないと私は考えないようにしていたのかもしれません。

 「みんな違って みんないい」という詩もありますが、みんなと同じことを求められる場面が学校生活ではたくさんあります。そこで、自分は人と違っていると意識する時期が必ず来ます。まず、補聴器。「いつになったら、つけなくてよくなるの?聞こえるようになるの?」いつかそうたずねられると覚悟していました。その時、何と返事をすればよいのかと、いつも思っていました。うそも言えないし、治らないとも言えないので、「いつか治ったらいいね」とごまかしたように答えました。この問いは、何回かされましたが、いつもそれ以上の返事ができませんでした。最初に申しましたように、私は子どもの障害を否定的にしか受け止めていなかったので、きちんと答えることができなかったのです。

 小学校の3~4年生の時、ギャングエージと言われるこの頃は、活発に楽しそうに学校生活を送っているように見えましたので安心していました。それでも、毎朝登校前に、玄関で「緊張する。どきどきする。」と言って、深呼吸してから出て行った娘の後ろ姿が忘れられません。何のサポートもない通常のクラスの集団に入っていくのが、本当に大変だったという事を表していたのだと思います。そのことにすぐ気がついてやれなかったことはかわいそうだったと思います。では、気がついていたら、何をしてやれたでしょうか。

 ここで小学校の時に通っていた難聴学級の話をします。1・2年の時通っていた市には、難聴学級がなかったのですが、3年から転校した市には難聴学級があり、家から遠かったのですが、薦められて、週1回(90分の指導のため、往復の時間を入れて4時間かけて)通級しました。親としては、難聴学級に次の三つのことを期待していました。

 一つ目は、在籍している通常学級の先生は、聴覚障害に関する知識をお持ちではないので、難聴学級の先生と連携をとりながら、学校生活で起こる(かもしれない)問題に、先生方が相談しながら、対処してほしいという事。

 二つ目は、難聴学級の先生は聴覚障害教育のプロ(だと思っていました)ので、現在だけでなく、将来的なことも予測しながら、学習、生活面の指導をしていただきたいという事。

 三つ目には、難聴学級の場で聴覚障害児の先輩やその保護者とも親しくなれたらいいと期待していました。

 こちらの希望をお話して通級が始まりましたが、期待に添うものではありませんでした。まず、在籍学級も難聴学級も、先生はお忙しいのでしょう。先生方の連絡はほとんどなく、連携はありませんでした。指導内容も、こちらで期待していたことではなく、まず補聴器のフィッティングから始まりました。娘の聞こえは中等度でしたが、補聴器で大きな音を入れるとうるさがったり、気分がわるくなったりするので調整は微妙に難しく、病院に補聴器のフィッティングはお任せしていると、難聴学級ではお断りしましたが、「もっといいのがある、もっと聞こえるはず。試してごらん。」と言われ、試してみて混乱したことがあります。(難聴学級の先生は、聴覚障害教育のプロでもありませんでした。)

 難聴学級で友だちはできたでしょうか?それぞれが決まった時間に来て、終わったら帰る個別指導なので、交流はほとんど期待できません。(年に1~2回、クリスマス会などあったので、交流が全くなかったわけでありません。)が、娘は「難聴学級には、何のために行くのかわからない。通常学級を抜けだしてまで行きたくない」と言いました。私も行かなくていいかな、と思いました。ただ、先生は一生懸命で、先生の熱意は分かるのですが、考えのどだいが違っていると、思いもすれ違ってしまいました。「やめます」とも言えなくて、「体調が悪い」とか、適当なことを言いながら、高学年では月に1回や1学期に1回、顔を見せに行くだけになりました。

 このように、娘はほとんどサポートのないインテグレーションをしていました。インテグレーションのマイナス面はとても大きなものがあると思いますが、プラスの面が全くないかと言うと、そうでもありません。娘にはインテグレーションしていた小学校・中学校時代、どの学年でも心を通わせることのできるお友達がいました。少人数のお友達ですが、何かとサポートしてくれました。ただ一方的に恩恵を被っているだけではなく、お互いに友だちとして選び選ればれた、良い関係の友達関係も経験できたと思います。

 また、親友というほどの親しい関係でなくても、クラスの仲間は「聞こえないことがどういうことか」「その子とコミュニケーションをとる時、どんなことに気をつければいいのか」が、日常生活を共にする中で分かってきます。

 4年生の時に、クラスの仲間で、夜、外でおしゃべりをしながら1時間ごとに月を観察したことがありました。「皆、懐中電灯で自分の口元を照らしながら話してくれたんだよ」と喜んでいました。娘が補聴器だけでは十分でなく、口形も読んでいることを分かってくれているから、自分から言わなくてもクラスメートは自然に、そのようにしながらコミュニケーションをとってくれたのです。このように聴覚障害の理解が自然に広がっていったのはプラスの面だと思います。インテグレーションしている本人には大変な生活ですが、「聞こえる人の中にも理解してくれる人はできる」と人を信頼して、将来社会の中に出て行けるプラス面もあったと思います。

 そうは言っても、障害をきちんと理解することは難しい事で、生活を一緒にしている家族、特に一番の理解者であると自負している母親の私にも、分からない事はたくさんがありました。特に中等度の難聴で、補聴器もつけてある程度聞こえていると、ついつい娘の聞こえにくさを忘れてしまいました。娘に向かって「こぼしてばかりで、お行儀が悪いね」と言ったことがあります。娘は、誰かがしゃべっているというのが分かっていて、その口元を見て、初めて聞いています。同じ場面にいても、そこに会話があることに気づかないと、その会話は自分を素通りしてしまいます。食事の時間、皆でご飯を食べているとき、会話が交わされますが、一緒にいる時に言ったから分かっていると思ったのに、全然知らないことが度々ありました。下を向いて、ご飯を食べていると、上で話が交わされたのは全然分からないのです。ですから、娘はいつも、下を向かないようにして、皆の顔を見ながら食べているので、よくこぼします。洋服にしみもつけるので、「お行儀が悪いね」と言ってしまったわけですが、今は心ない言葉を言ったと思います。

 成人の聴覚障害者は、聞こえる家族の中で、一番の抑圧を感じた、と話されていました。家族として、抑圧を与えるつもりなんてもちろんないのですが、例えばこういう言葉も抑圧だったんだなと思いました。

 聞こえないお子さんは、通常学級でいじめに合うことも多いと聞きますが、娘の場合も、小学校高学年では、クラスで、陰湿ないじめがありました。障害のある娘だけが標的になったのではなく、クラスの中で、順番に標的をつくっていじめていくのですが、担任や保護者にも全貌がつかめない巧妙なものでした。無視、仲間はずしが進み、聞こえる子も、アンテナをはりめぐらして、自分の所にいじめが来ないように皆必死でした。耳からの情報が入りづらい状況で、娘はどんな気持ちでこの時期を過ごしたのかなと思います。

 ちょうど思春期に入る時で、親の介入を最も嫌がる時期でした。お母さんは「余計なことを言わないで!先生や友達に何も言ったりしないで!」と。私はもうどうしていいか分からず、娘の話を聞き、見守る事しかできませんでした。難しい時期です。

 そんなストレスもあったからでしょうか、娘の聴力は悪くなったり元に戻ったりしながら、高学年から低下していきました。私にとって、一番恐れていたことです。中等度の難聴なら、ある程度耳から入るという気持ちにすがっていました。娘もきこえが悪くなってくると、その分、読話に頼り疲れるので、いらいらすることが多くなりました。

 娘は、生まれつき中等度の難聴で、健聴の聞こえを知らないので、皆こんなものだろうと思っていたと思いますが、聴力が低下するうちに、自分ははじめからちゃんとは聞こえていなかったんだと、自分の聴覚障害を意識したようです。だんだん聞こえなくなっていく時に「中途半端に聞こえないのであれば、もう、聞こえなくていい」と言いました。私は思わず、「なんて罰当たりな」と言ってしまいました。(今、娘は、「お母さんのあの言葉は忘れないよ。」と言います。)

 中学入学後、娘の聴力が落ちて、スケールアウトになりました。ある朝起きた時に全く聞こえなくなっていたのです。何とか治す方法は?と、ステロイド療法などで回復を試しましたが、もとには戻りませんでした。その現実を、娘も私もすぐには受け止められませんでした。思春期でもあり、小さい子どもの時とは別に、娘自身、自分の障害を受け止めないといけないのです。真っ向から向かい合わざるを得なくなりました。

 なんとしても聴力を回復させたいと思えば、残された方法は人工内耳しかありません。病院にも相談しましたし、人工内耳の装用者の「ACITA」の会にも連絡を取りました。娘の場合は言語習得後の中途失聴なので、人工内耳をするには最も適したケースですが、思春期の人工内耳手術はとても難しいと言われました。うまく手術できたと思うのに、使わなくなってしまう例がよくあるので、人工内耳について、よくよく本人が理解して、それでも強く希望するのでないと勧められないとも言われました。

 聞こえはもう元には戻らない。人工内耳にすると難聴程度の回復はできても、聞こえるようになるわけではない。人工内耳の手術を受け、聞こえを少し回復して難聴者として生きていくのか、それともろう者として、聞こえない世界で生きていくのか、その選択を迫られました。娘自身が聴覚障害をどのように受け止めるのか・・・これが2回目の障害の受容を迫られた時です。今回はごまかしがききません。

 この時は娘も手話を知りませんでした。全く聞こえなくても、声を使って話すことはできますが、こんな状態では学校へも行けなくなって、家で泣いてばかりいました。意を決して学校へ行ってみても、「何も聞こえない授業の50分間を何もせずに座っているのは拷問だ」と言っていました。この子の将来はどうなるかと考えると、出口のないトンネルにいるようでした。出口を見つけるまでに長い時間がかかりました。出口はどこにあったのでしょうか。

 実は最初の入り口に戻ることでした。障害についてきちんと見つめなおし、聞こえないというありのままの状況を認め、現在の聴覚障害の問題を全部分かり、その上で自分はどう生きていくか考えなければいけない。そのことを指導してくれる先生に出会えました。娘は聞こえない人として生きていこうと決心しました。

 中学2年の3学期に難聴学級に転校しました。これ以上、聴力が下がることはないと思うと、娘も私もホッとしました。この難聴学級には、後輩にデフファミリーのお子さんがいました。その方との交流で手話も自然に覚えました。

 難聴学級ではそれまでほとんど学校に通えなかった娘のために、最大限に個別指導をしていただきました。国語、数学、英語を週に11時間。後の授業は通常クラスで受けますが、通常クラスではほとんどサポートがないので、やはり大変でした。「あかね(難聴学級の名前があかね)の部屋はホッとできる」と言って、そこで1人で自習する事もよくありました。この難聴学級のサポートを受けて、娘は自分を立て直していきました。先生方にはお世話になり、感謝していますが、小学校の時とはちがう形で、先生との間に障害に対するとらえ方の違いがあり、とまどいもありました。

 障害があるのでできない事や、参加できない時にどうすればよいのでしょうか。音がとれず歌えない合唱コンクールでは、口パクで出るしかないのでしょうか?体育祭で、足を縛って「おおむかで」競走の時、かけ声に合わせられない娘は、ずっと下を向いて前の人の足を見て、手でも合図をしてもらって何とか転ばないように何とかできましたが、障害があっても皆と一緒にやることだけが意味のあることなのでしょうか?他にどんな方法があるのか、難聴学級の先生に、一緒に考えてほしかったと思います。

 高校進学は、「手話で授業を受けたい、生徒会や委員会活動もやりたい」と、ろう学校に行くことに決めました。ところが、ろう学校高等部で高校レベルの教育を受けられるのかと言いますと難しいのが現実です。将来、大学進学も考えられるろう学校は、数少ないようでした。

 希望の学校に入れましたが、入学して最初、ショックを受けたようです。「ろう学校からあがってきた同級生は自分に自信を持っている」と。娘はそれまでインテグレーションしていて、周りと違った事をして恥をかかないように、いつも自信なげに周りをきょろきょろしていましたから、今までの教育はなんだったのかとショックを受けたのです。娘だけではなく、インテグレーションからろう学校に入学した生徒さんは同様だったようです。

 しかしまた、ろう学校あがりの生徒さんに対して、批判も言いました。ろう学校という小さな集団で、小さい時からずっと一緒に暮らしているので、学校が家族兄弟の感覚です。ろう学校という狭い社会では、娘は息苦しさも感じていました。自分の個人的なの出来事を、学校内のみんなが知っている、時には、ろう社会の情報網で、学校外の人までに知られているという息苦しさです。そういうところで育ってきた同級生に「これで将来、社会に出てやっていけるのだろうか」と言っていたこともあります。インテグレーションでつらさを味わった経験からの言葉です。実際、ろう学校から外部の大学に出て、うまくいかなかったという例も聞きます。

 大学進学の時も、分かる講義を受けたいという条件で志望校を選びました。現在、情報保障を手厚く受けられる大学に通っております。今、大学4年生ですが、ほとんどの講義にノートテイカーをつけて、ゼミなどは手話通訳もお願いしています。聴覚障害学生が大勢いる大学の中で、手話サークルや聴覚障害学生の団体などに必然的に入っていますが、聴覚障害と関係ないクラブでもやってみたいと、入学後アーチェリークラブに入りました。

 周りが皆聞こえる人の中で、自分だけ聞こえなくて、取り残されたような寂しさを感じ、通じない経験もしているようですが、そこで自分はどうしていくのかを考えたかったのでしょう。再度インテグレーションを試してみようとしたのだと思います。

 現在21歳の娘を育てたこの20年間の経験を話しましたが、娘が生まれた20年前と今は、時代が違っています。例えば、補聴器は耳掛け式が始まった時期です。携帯電話のメールのような便利なものができるなどとは想像できませんでした。電話もシルバーフォンはありましたが、FAXも一般家庭にはありませんでした。

 子どもにとって、テレビの話題は大きいので、見たいテレビ、見せたいテレビはありましたが、内容を分からせるのはとても大変で、テレビがあることでかえって寂しい思いをしていました。手話の番組ができたのも、だいぶ後です。(私自身、手話を見たことがなく、ろう学校見学の時に、休み時間生徒さん同士が手話で話している姿を少し見た位ですが、日本手話の文法を表す独特の表情にも違和感を覚えました。)

 今は、インターネットなどの普及で、子供の障害がわかっても、ホームページで調べて、いろいろな情報を得ることができます。20年前はそういうこともできませんでした。

 1980年は、世界保健機関(WHO)国際障害分類(ICIDH)が制定され、機能障害が能力障害につながり社会的不利益になると書かれています。(それが変わったのは最近です。新しい分類(ICF)では、障害をマイナス面だけでなく、プラス面からも見直さなければならないと書かれています。)

 1980年から1990年にかけての国際障害者年の頃、成人になられた聞こえない方々から、自分たちが受けてきた聴覚口話法教育に対する批判、それが良くなかったという話が出始めました。聴覚口話法だけで育てられた大変さを、批判された親御さんは最初すごくショックを受けました。「そのように言える言語力がついたのは、聴覚口話法で親子ともども頑張ったからじゃないの」という声もありました。1995年、ろう文化宣言も出て、聞こえない本人たちの話されていることを認められるように、徐々に変わってきました。

 1995年。当時の文部省や東京都でも、従来の教育方法についてここで見直す必要があると、従来認めていなかった手話などコミュニケーション手段を認めるようになりました。そういう報告、答申が出ました。

 1997年、東京都聴覚障害教育検討委員会では、最初は、聴覚障害者本人の参加を計画されていませんでしたが、聴覚障害者本人の声を反映してほしいという要望が強く、委員としての参加がやっと認められました。1998年に発足した「コミュニケーション指導等の研究委員会」には、東京都の親の会代表が委員として出席しました。お役所が聴覚障害教育を検討する際に、やっと障害者本人や親の意見を取り入れてくれる体制になったのです。

 東京都難聴児を持つ親の会では、21世紀を迎える2000年に、これからの聴覚障害教育はどのようであってほしいのかを、今までの反省を踏まえて考えたいと、親の会の会員に自由記述形式のアンケートをしました。早期教育、インテグレーション、難聴学級、ろう学校で教育を受けさせた経験から、さまざまな反省や意見が出ました。先ほど、私が娘を育てて感じたことや問題点をお話しましたが、それが私の個人的な意見というだけではなく、他にも大勢の方々が同様に考えておられるということが分かりました。

 まず、聴覚障害教育の目標をはっきりさせたいというのがあります。聞こえない子どもたちが将来大人になった時、どんな人として社会に入っていったら良いのでしょうか。スタートは親や先生が子どもたちの障害をどのように受け止めるのかです。今までのように、「聞こえる人のように」ではなく、「聞こえないことが認められ、聞こえない人としての誇りをもって」社会に受け入れてもらいたいという意見がたくさんありました。

 そのためは何が必要でしょうか。言語力、コミュニケーション力が大切です。今までの聴覚口話法一辺倒ではなく、手話など確実に伝わる方法で、子どもたちの力を伸ばしてほしいのです。

 インテグレーションしている子どもが多くいましたが、聞こえない子どもに合った支援はほとんどありませんでした。情報保障などのサポート体制を求めています。

 同じ障害を持つ仲間がいる環境を求める声もありました。しかし、難聴学級やろう学校に対する苦言もたくさんあり、今までのままでは親が求めている学級、学校ではないということです。インテグレーションしている学級、難聴学級、ろう学校・・・それぞれの教育機関がもっと連携をもっていれば、子どもの、その時々に応じたところで適切な教育を受けられるのに・・・等の声もありました。

 先生に対しても、聴覚障害教育に関する専門性のない先生が多く、親の希望と話がかみあわなかったこと。聞こえない先生がもっと増えて、生徒たちのロールモデルとなってほしいという希望があります。

 医療機関と教育機関の関係も共通認識をもって、連携がとれるのが望ましいですが、全くずれていることがあります。今後、人工内耳に関する医療側の説明に不安も見られました。

(アンケート集計内容を簡単にまとめたものを、今日の資料としてお渡ししていますので、ご覧ください。)

 難聴学級に対する不満の声もかなりありました。東京都難聴児を持つ親の会は、かつて、東京に難聴学級を設置してほしいという運動をしておりましたので、難聴学級の現状を把握するために保護者にアンケートをとりました。(親の会は、難聴学級とは、「東京都公立学校難聴言語教育研究協議会」というパイプを持っていますので、難聴学級を通して質問票を渡し、先生を通さずに返事は直接親の会にいただきました。)小1から中3まで、いろんな聴力の方から幅広く意見をいただきました。

 難聴学級への要望としては、制度(通級制の見直し・・・通級指導を受けるために通常学級を抜け、長い通級時間が必要、固定制の希望)、設置数(難聴学級の増設)、設備(学校、学級によってまちまち)、指導内容(個々に合った指導を求める、心のケア)、コミュニケーション力の向上(聴覚口話法だけでなく、いろんな手段で通じ合う指導がほしい)、指導形態(グループ指導…同じ問題を抱えている仲間ときこえないことを考えるグループ指導がほしい)、教員(力量もまちまち、専門性を求めたい)、障害理解の促進(子どもの在籍している学校に、もっと障害理解をひろげてほしい)、通常学級での支援などがあがりられます。

 (こちらもまとめたものがありますので、必要でしたらご覧いただけます。)

 (ろう学校にはアンケートができませんでしたが、ろう学校PTAの採ったアンケートでも、同様な要望がでているそうです。)

 以上のアンケート結果や、その後座談会で話し合ったこと等をまとめて、2002年に東京都の教育委員会に親の会から要望書を出しました。その内容は

1.          インテグレーションをしている子どもが多いので、通常学級で学ぶ聴覚障害児に必要なサポートをつけてください。

2.          一人一人の生徒は聴力も抱えている問題も違うので、通り一遍ではなく、一人一人に合わせて、親、本人の声も反映した個別指導計画を作成し、それにそった指導を実践してください。

3.          聴覚障害児はそれぞれ聴力、コミュニケーションの方法も違っていますが、最終的に必要なのは、日本語を読み、書く力です。聴覚障害児にあった言語力の育成・指導を行ってください。

4.          聴覚障害教育には専門的知識が必要なので、教員の研修も計画してください。現状では教育者としては指導力不足教員もいます。聴覚障害児教育の専門性を備えた先生を配置してください。

5.          難聴学級があるところでも、通常クラスの先生には聴覚障害を理解してもらえない事があります。総合的な学習の時間などで聴覚障害の理解を広めてください。通常学級に聞こえない子どもたちのために情報保障の支援が入ったら、サポートが必要なことが自然にわかってもらえます。聴覚障害についての理解が推進されるように啓発してください。

6.        子どもが成長するまでに必要な情報が現在はいろいろなところにありますが、それが1カ所で全部わかり、適切なアドバイスがもらえる施設が欲しいです。聴覚障害児(者)のための《総合センター》を設立してください。

 この頃から、東京都で、これからの心身障害教育の在り方を考える東京都心身障害教育改善検討委員会が始まりました。親の会もそれを見守ってきました。そして、2003年6月に「これからの東京都の特別支援教育の在り方について」の中間まとめが発表された時も、親の会は意見を出しました。

1.          特別支援教育の理念は、親の会としては賛成である。通常学級へのインテグレーション、難聴学級、ろう学校と分断されていたものが、特別支援教育では、総合的にネットワークを持たれていくことには賛成できるが、現在でも環境整備が十分でないのに、枠組みが変わっただけで現場が混乱し、障害のある子どもたちの居場所さえなくなってしまうことを一番心配している。そのために、特別支援教育に関して、保護者が相談でき声を届けることのできる窓口を設置してほしい。アンケート調査をしてみると、今までの教育に対する不満の声ばかり出てきたが、学校や先生に届かなかったのは、親の考えと根本がずれていたからだ。不満の声が改善に生かされるように、都の教育委員会にそういう窓口を作ってもらいたい。

2.          グループ指導と個別指導については、ろう学校、難聴学級でも、一人一人の子どもに合った、ニーズに合わせた個別指導をお願いしたい。聴覚障害児は、数が少ないので、仲間をどこででもは見つけられない。こういった教育機関の中で、同じ障害を持って、自分の意見を気兼ねなく言えて、互いの意見を聞ける集団は、子供のアイデンティティー形成に大切なので、グループ指導を大切に考えてほしい。

3.          個別指導計画については、先生の独りよがりにならないように保護者、本人を交えた話し合いのもとに個別指導計画を作成して、その計画にのっとって、支援教育をしていただきたい。その結果、効果、成果に関してはきちんと評価し、必要に応じて計画を練り直すこともしてほしい。

4.          通常学級でのサポートも充実してほしい。

5.          ろう学校の先生、難聴学級の先生の専門性を高める研修と人事もお願いしたい。現状では、専門性を身につけられた本当に信頼できる先生が、全く関係のないところに異動される、聴覚障害について全然知らない先生が来られることがよくある。そういう現実の中から、こういう要望を出している。この声はとても大きいものである。

6.          保護者、本人の説明と同意 特別支援教育については、保護者と本人が事前にいろんな説明を受け、いろんな教育を受けられる体制の中から、しっかり考えて選べるようにしてほしい。

7.          選択できる体制作りと保護者の選択権 6と関わるけれど、保護者の選択権の重視もしてほしい。難聴学級は、東京都では現在通級制と巡回制があるが、難聴学級のマイナス面を考えた時、固定制もふやして、もっといろいろな形があれば良いと思う。形がいろいろあれば、選択できる。

8.          地域格差の解消 ろう学校、難聴学級に通おうと思っても、通学困難な場所がたくさんある。どこに住んでいても質の高い支援教育を受けられるようにしたいが、現在の厳しい財政事情を考えますと、心配である。

以上が、親の会の出した意見です。

最後にまとめとして

 私の個人的な子育て経験を、反省を込めて長々と話しました。もし、今からもう一度子育てをするとしたらどうするかなと振り返りますと、子育てを始めるにあたって一番基本になるのは、子どもの障害をきちんと認識することでした。

 障害をマイナス面から見るのではなく、明るい気持ちでスタートできるようにしたいです。今の時代なら、社会も、昔と比べて障害の受け止め方、支援の考えが変わってきています。これから先を考えても、ますます便利になると思います。今後障害を持つお子さんを授かったお母さんも、明るい気持ちで取り組めるでしょう。それをバックアップするように、WHOの国際障害分類が新しくなりまして、マイナスイメージを払拭(ふっしょく)できるのでは、と思います。

 私の子育ての中で、(私はその時気付かなかったかもしれませんが)子供は正直にSOSを出していました。「その教育は、ちょっと違うんじゃない?見直してよ」と行動に表していました。幼稚園をやめると言ったのもそうですし、どきどきすると言って深呼吸をしながら登校したのそうだったと思います。子供のサインを見逃さず、子どもに我慢をさせるのではなく、何が言いたいのか見極めていくこと。子どもが学ぶ環境にしても、聴力だけではなく、その時その時その子が必要としているものを与えてもらえる環境を、選びたいと思います。

今の若いお母さんたちは、私たちの時代と違って、親が子どもの教育に関して全部負担するのではなく、社会に支援を求めるようになっていると思います。特別支援教育と枠組みが変わったときに、これがうまくいくように願っていますが、もしも、問題が起こったときに解決していくのは、やはりお母さん方の力だと思います。その問題は、今目の前の自分の子どもに関わっているだけではなく、将来につながっていく大きな問題かもしれません。ひとつひとつの問題をどうしたらいいか一生懸命に考えてください。その積み重ねが教育改善につながっていきます。聴覚障害教育に、少しずつですが進展が見られてきたというのも、ずっと以前から長い間とても苦労され、抑圧され大変つらい思いされた汗と涙の先輩たちの声があって、変わってきたのだと思います。これからの若い方々にも、その聴覚障害教育がさらに良いものになるように携わっていただきたいと思います。

今日のタイトルは「これからの聴覚障害教育への期待」でしたが、親の立場から求めることだけを言ってしまったように思います。親が言っている事もすべてが正しいわけではないと思います。先生方がご覧になって、それはちょっと違うのではないかということもあるでしょう。今まではその辺の意思疎通がうまくいっていなかったところもありました。それをもっと風通しを良くしながら、私たちも教育の方向をしっかり見据えていきたいと思います。

 今日は最初に大塚ろう学校の取り組みのお話を伺いました。私が子どもを連れてろう学校の見学にまわった頃は、ろう学校に行かせたいとは思えませんでした。今お話を伺って、こんな学校なら安心してお任せできると思いました。大塚土曜クラブもそうです。難聴学級の子どもでも、インテグレーションしている子どもでも、広く受け止めてくれているような取り組みも心強く感じています。

 今日こういう場を与えていただき、至りませんでしたが、ありがとうございました。

関連記事