大人になる今、思うこと

MOさん(聴覚障害者)

 私は今年 で20歳になります。まだ全然実感できませんが、この20年間生きてきて昔の私と今の私とでは随分違います。今日は、私自身も自分の過去を見つめ直しながら皆さんにお話したいと思います。

 私の家族は、父・母・兄の4人です。父は幼い時に高熱を出しその影響で聴覚を失いました。父の姉も難聴なので、私の耳は遺伝なのだと思います。母と兄は健聴者です。母は手話通訳の仕事をしています。一家に、聞こえる2人、聞こえない2人が生活していました。その中で本当にたくさんの葛藤がありました。聾学校育ちで手話を愛する父を持ちながらも、なぜか私は生まれた時から口話教育でした。でも家の中では父と母が手話で話していたので、いつも身近に手話がありました。幼稚園も健聴の世界に入り、週に火曜日だけは幼稚園を休み南村先生のいらっしゃる「母と子の教室」に通っていました。その時からすでに聞こえる世界への壁を感じ始めていました。まだ幼いながらも必死に心の中でもがいていました。今でもその時の気持ちは覚えています。「母と子の教室」は、名前の通り聞こえない子供とお母さんと先生でお話をしたり劇をやったりいろんな所に行ったり、いろんなことに挑戦したり:とても楽しかったのを覚えています。私のほかにSちゃんとKくんがいました。いつも3人どこでも一緒でした。今もSちゃんとは「あのころは楽しかったね」とよく話題に出てきます。

 母と子の教室では再現遊びといって本の再現をしたり、作ったりします。今振り返ってみると、子供がいつも中心でそれにお母さんと先生が一緒になって遊びます。母と子、先生生徒と言うより仲間のような関係でした。子供たちの心に寄り添う:そのやり方は本当にいいと思います。口話教育を受けていた友達にどうだったか聞くと大変だったとか、苦しかったという人もいます。私はそういう面で幸せな環境にいたのだと思います。あの時私に「母と子の教室」がなかったら、きっと私の居場所はなかったと思います。

 そして、小学校に上がると同時に「母と子教室」を卒業し、健聴の地元の学校に入りました。その時はまだ聾学校の存在を知らなかったと思います。当時はマンションに住んでいて同い年の子がいっぱいいて仲が良かったので、何もためらいはありませんでした。やはり緊張はしましたが、期待で胸がいっぱいでした。しかし、現実はそんなに甘くありませんでした。いつも母の後ろにかくれていた私には初めての試練の始まりでした。母がいない学校で、いくら話せても聞こえる範囲にも限界があり、毎日毎日先生、友達の顔色をうかがっていました。必要以上に気にしたため、周りにどう思われてるんだろうといつも不安でした。健聴の学校に行っていた子の一番苦しい所は、先生が黒板に書きながら勉強を教えている時だと思います。どうしても後ろを向かれると今まで必死に聞いて覚えようとしてるのが一気に分からなくなってしまいます。私は当時手を挙げてはっきりと言えるような子ではありませんでした。それで何度も苦しみました。あと友達は好きだったのですが、学校での集団行動が苦手でした。学校というもの自体が好きではありませんでした。自分でもちょっと変わってるなと思います。1年の時から学校にはあまり行きたくないと思っていました。それが決定的になったのが4年生の時です。音楽の時間で歌を歌っている時に、ある同級生がみんなの前で先生に私の歌い方が変だと言ったのです。先生は必死にフォローしてくれたのですが、私はその場で頭が真っ白になりました。泣きたいを一生懸命こらえて、家に帰って母の顔を見たとたん涙があふれました。悔しくて悲しくて恥ずかしかったです。泣きながら訴える私を母は優しく抱きしめてくれました。この時はっきり自分は障害者なのだと実感しました。それから、歌う時は口パクになり、周りとの壁を感じるようになり、しまいに学校は休みがちになってしまいました。母も始めは行かせようと必死でしたが最後は何も言わなくなりました。その時父とのコミュニケーションがあまりなかったため、気難しい父は苦手でした。学校に行かない私を毎日のように怒鳴りました。その度に母がよくかばってくれました。それから、5年生の時夏休みに友達とプールで泳いでたら男の子が私の頭にすごい勢いでぶつかってきて、その衝撃で聴力が下がってしまい夏休み中、一カ月間入院していました。初めて音のない生活を体験してすごい孤独を感じました。聴力は戻ったものの、それをきっかけにさらに心を閉ざしてしまい、ますます休みがちになってしまいました。当時の先生が、健康で積極的で目立つ子をかわいがる所があり、私にとっては居心地が悪かったです。できない子は駄目なのか?その先生のやり方にいつも疑問を感じていました。そして、小学校の卒業式:校長先生がみんなに贈ってくれた言葉がありました。「みんな違ってみんないい」金子みすずさんの有名な言葉です。その時の私はこの言葉にすごい衝撃を受けました。中学も健聴の学校と決まっていた私に、その言葉はなによりの励ましでした。今でも、この言葉は胸の中にあります。

 5年生時、祖父母と暮らすため地元から二駅の所に引っ越ししました。特別小学校はそのまま通わせてもらっていたため。中学はほとんど知らない子ばかりでした。今度こそはと思いましたが、すぐに駄目になってなってしまいました。ちょうど思春期の始まりで、みんな自分のことでいっぱいいっぱいで、私も耳のことを伝える勇気もなく、入学して一週間もたたないうちに、とうとう完全な登校拒否になりました。ここから、父との葛藤、自分への葛藤が始まったのです。私は完全に自分の殻に閉じこもってしまいました。ただただ一日一日を、ぼんやりと過ごしていました。そんな私を見るのが苦しかったのでしょう、小学校の時から母は、気晴らしにいろいろな所に連れて行ってくれました。私にとって母は、良き理解者であり、一番落ち着く人でした。母の隣にいるだけでいつも幸せでした。その母の優しさに、私はずっと甘えていたのです。母の紹介で、「たまり場」というフリースクールにもいってみましたが、2・3回行ったきりでした。この時の私は聞こえる世界への壁をとても厚く作ってしまっていたのです。その時、「ファンタジー」という同年代の仲間がたくさんいたので、本当に救われたし、励まされました。今でも、その仲間とは、会ったり旅行に行ったりしています。そのまま時がたち、2年生になった時さすがに今の状況を変えたく、聾学校に代わりたいと思いました。自分の居場所を求めていたのだと思います。

 期待を胸に、2年の秋、健聴の世界を離れ、待ちに待った父の母校である川崎聾学校に編入しました。全てが新しい体験でした。しかし、そこでも大きな壁が私を待ち受けていたのです。入って間もなく先輩が口話で話しかけてきたので、口話で返したら「あいつは手話ができない、なまいき」だと言われました。健聴の学校からきた子は特別に見られ、とても傷つきました。でもそれは仕方ないことです。難聴でも同じ聞こえない仲間なのに:どうして私はこんなにも生きにくいんだろうと、ますます、自分が嫌いになり自信を完璧に失いました。私が入って間もなく「ファンタジー」の仲間のうち、2人が編入しました。この2人も、健聴の世界でそれぞれ息づまっていたのだと思います。

 聾学校の音楽の時間も嫌でした。みんなより聞こえが軽い私は、よく褒められました。それが嫌だったのです。でも、同級生のみんなはとても暖かい子たちでした。みんなといっぱい話したいと思い、手話を一生懸命覚えました。健聴の世界では全部は通じなかったことが、ここでは全部通じるのです。それが一番うれしかったです。まだ手話を認めない人もいるみたいですが、手話は聞こえない人たちにとって、大切な大切な言葉なのです。一生の財産です。父とはこの時もまだ、仲は良くなかったのですが少し父の気持ちが分かりました。

 規則が嫌いな私は、髪を染めたり、スカートを短くしたり、反発していました。先輩とのいざこざもあり、精神的に病んでいた私は、聾学校までも行けなくなってしまいました。健聴の学校の時とは違い、行きたくても行けない苦しさに悩みました。みんないい人たちで、すごい気にかけてくれていました。もう、こんな自分に限界を感じていました。私は今まで、自分自信自から壁を作っていることに改めて気づきました。強くなりたい、日に日にその思いが募りました。家ではいつものように怒る父を、母が一生懸命説得してくれていました。でも父は絶対にまげませんでした。そしてとうとう、真夜中に最悪の事態となり、祖父母も駆けつけて一緒になって説得してくれました。ただ私は泣くばかりで父にこの気持ちをどう説明すればいいのか:言葉がどうしても出てきませんでした。長い説得の中、最後に母が「Mは行きたくないんじゃなくて、行きたくても行けないんだよ」そう言った時に、初めて父がうなずきました。「分かった」そう一言いったきり、それから何も言わなくなりました。今思うと、父は同じ障害を持った娘に期待していた部分が強かったのだと思います。父が私ことを分かってくれた、この出来事から私は、考え方が変わってきました。今までの葛藤があった分、父が受け入れてくれたことは私の中でとても大きかったです。

 そして、3年になり進路を決める時期がきました。担任の先生がとてもいい先生で、私の人生を変えてくれた人です。先生は、高校がまだ決まっていない私に、愛知県の山奥にある全寮制の「黄柳野(つげの)高校」を紹介してくれました。この高校は普通の学校とは違い、ドラマで放送された「ヤンキー母校に帰る」と似たような学校です。興味があった私は、2回ほど体験に行きました。あまりのど田舎には、驚きましたが、美しい景色には思わず見とれてしまったぐらいでした。
 この高校に入るのには、ためらいがありました。家を出て3年間、果たしてこんな所で暮らせるのか?気が小さかった私は、すごい悩みました。その時、先生が私にこう言いました。「人生、失敗してもいくらでもやり直せるんだよ」と、背中を押してくれました。私はとにかく変わりたい、そして母と離れたい。このまま一緒にいたら、ますます駄目になる。母なしでは生きて行けなくなりそうで、自分の将来が怖くなりました。母のためにも、自分自身のためにも、この黄柳野高校に行くことを決意しました。母は始め反対しましたが、父はすぐに賛成してくれました。母と私の関係を父が一番分かっていたのだと思います。

 聾学校生活は2年半だけでしたが、聞こえない世界に触れ、すてきな仲間に出会えて手話の大切さを知り、私にとっては貴重な2年半でした。

 卒業式を終え、とうとう家を出る時がきました。祖父母も泣きそうな顔をしながら私を見送ってくれました。入学式は、父も母も来てくれました。最後別れる時、母の「がんばってね」の一言で、泣きそうになり必死にこらえて、笑顔でうなずきました。精いっぱいの私の笑顔は大好きな母へ、今までの感謝の気持ちでした。初めて家族と離れ、新たなスタートライン、すごい不安だけど「大丈夫」と自分に言い聞かせていました。3年間、同じクラスで同じ寮で生活します。珍しい学校なだけに、生徒も本当に個性的でした。ヤンキー、ギャル、パンク、もちろん普通の子もいます。次々と友達の輪が広がり、その度、積極的に耳のことを説明しました。反応が怖かった私ですが、そんなのは、すぐに吹っ飛んでしまいました。みんな、始めはそうなんだと目を丸くしていったあと、どうしたら聞こえやすいかを、細かく聞いて受け入れてくれました。そんな単純なことでも、私はみんなの暖かい優しさが、本当にうれしかったです。ここならやって行けるかもと、新たな一歩を踏み出しました。入学した時から一緒だった友達がいてその子には、たくさんのことを教えてもらいました。初めて本当の友達と呼べたのが彼女でした。ありのままの私を、受け入れてくれて、指文字も覚えてくれました。指文字は周りでブームになり、みんなができるようになっていてとても驚きました。補聴器が壊れたりすると、みんな一生懸命指文字や身ぶりなどで伝えてくれました。カラオケのできない私に、歌い方やメロディーを教えてくれた子もいました。今じゃみんなの前で平気で歌っています。黄柳野の子は、一人一人複雑な事情を持ってる分、心が人一倍暖かいのです。もちろんきれい事ばかりではありませんでした。始めはホームシックになり、母の声を聞いては泣いていました。大勢の人数になると、会話が分からずつらかったのはいつもでした。また自分の難聴という複雑な立場に悩み、家に帰ったこともありました。私たちのグループは、問題児でよく自宅禁止になり、親やスタッフの方々を困らせていました。高校生活の一番の課題は人間関係でした。24時間一緒に生活する訳ですから、毎日のように事件が絶えませでした。特に女の子は、ねちねちしていますからそれはもう大変でした。友達の取り合いなど、話すときりがないのですが、この問題は卒業しても大変だったのですが、あれから2年が経過してみんな大人になり、その問題も自然とながれて、今やっとみんな落ち着いたのだと思います。黄柳野で出会った仲間は、言葉ではとても言い表せないのですが、一言で言えば血を分けた姉妹です。今はそれぞれ、違う場所にいるけど、いつもつながっている気がします。だから久々に会っても久しぶりというきがしないのです。黄柳野の3年間は死ぬまで大切な大切な宝物です。ありのままの自分を受け入れ、大きく変わるきっかけでした。難聴で良かったって今は心からそう思えます。卒業式はもう号泣でした。父と母も来てくれました。さんざん迷惑をかけて、学校にもろくに行かなかったのに、父が初めて「よくがんばったね」と褒めてくれました。この時初め父の愛を感じました。父は前の私とは比べものにならない姿に、ほっとしたようです。今では、はっきり好きだと言えるくらい父とは仲良しです。

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